ラオス、その知られざる鼓動:百万象の土地の波乱の歴史
ラオス。この響きから、穏やかな仏教文化や豊かな自然を思い浮かべる方が多いかもしれません。
しかし、その静寂の裏には、権力闘争、流浪、そして複雑な国際関係が織りなす、驚くべき歴史の物語が隠されています。
本記事では、ラオスの人々がどのようにしてそのアイデンティティを築き上げ、いくつもの変遷を経てきたのか、その「歴史の裏側」に焦点を当てて解説します。
ユーラシア大陸の交差点、ラオ族の起源と「百万象の国」の誕生
ユーラシア大陸の辺縁からの旅路
現代のラオス領土における初期のヒトの痕跡は、旧石器時代にまで遡ります。
これらの初期の移住者はアウストラロ・メラネシア系の人々で、ホアビン文化と関連付けられています。
彼らは、東南アジアの高原や内陸部など、アクセスしにくい地域に定住していきました。
その後、オーストロアジア語族やオーストロネシア語族の移住の波が押し寄せ、さらに中国やインドからの直接的な文化交流が、この地に大きな影響を及ぼすことになります。
「百万象の国」ラン・サーンの建国
13世紀、現在の中国雲南省に起源を持つラオ族は、クメール帝国との境界へと南下を余儀なくされます。
そして1353年、ファ・グムという人物によって、ラオス初の統一王国である「ラン・サーン」、すなわち「百万象の国」が建国されるのです。
ファ・グムは、ムアン・スアの王スヴァンナ・カムポンの息子として生まれましたが、幼少期に祖父によって追放された父と共に、アンコールへ避難して育ったのでした。
クメール帝国からの帰還と仏教の導入
成長したファ・グムは、クメール王女を妻に迎えるとメコン川流域を戦い進み、ムアン・スアでの正当な権利を回復して、統一ラオス王国を樹立するに至ります。
彼は、王国内の多様な民族を統合するため、上座部仏教を導入しました。
義父であるクメール王は、仏教の学者や経典、そして「プラ・バン」と呼ばれる黄金の仏像をファ・グムに送ります。
プラ・バンはラオスの統治権の象徴とみなされ、首都ムアン・スアに安置されることになりました。
この都市は、神聖な仏像に敬意を表して「ルアンパバーン」と改名されたのです。
その後200年間、ルアンパバーンは王国の宗教的・文化的中心地としてあり続けました。
王国の衰退と分裂:周辺国との衝突と植民地化の波
領土の変遷と王位継承問題
ラン・サーン王国は、長年にわたりクメール、ビルマ、ベトナム、そして中国雲南省の勢力と領土を巡る争いを繰り広げ、その版図を拡大したり縮小させたりしていきました。
17世紀には、その版図は相当な広がりを見せるまでになっていました。
しかし、1694年に国王ソゥリニャ・ウォンサーが後継者なく死去したことで、王国の力は衰退し始めます。
三王国への分裂とシャムの支配
国王の死後、周辺諸国の介入によって煽られた内紛が激化し、ラン・サーン王国は最終的にルアンパバーン王国、ビエンチャン王国、チャンパサック王国という3つの王国に分裂してしまいます。
これらの王国は絶えず争いを繰り返し、18世紀末までには、特にシャム(現在のタイ)の勢力下に置かれるようになり、現在のラオスとカンボジアの大部分がその支配下にあったのです。
フランスによる保護領化
シャムは、自国の独立を維持するため、ラン・サーン王国(およびクメール)の領土をフランス領インドシナへと割譲することになりました。
フランスは、この3つの地域を再統合し、「ラオス」という新たな保護領を樹立します。
「ラオス」という名称は、ラオ族の複数形である「les Laos」に由来していると言われています。
一方、シャムは現在タイ北東部にあたるイサーン地方を保持することになりました。
イサーン地方には、当時も現在も多くのラオ族が居住しており、今ではラオス国内よりもイサーン地方に住むラオ族の方が多いという状況なのです。
フランス植民地時代と独立への道
「蓮を食う人々の土地」における「開発」
フランスの支配下、「蓮を食う人々の土地」と呼ばれたラオスでは、実質的な開発はほとんど進むことはありませんでした。
道路の建設は進まず、大学は開設されず、医療もほとんど改善されなかったのです。
山岳地帯はプランテーション農業の障壁となり、メコン川は商船の航行には適していませんでした。
商業活動は、アヘンの輸出がほとんどを占める状況でした。
広大なラオス全土で、フランス人はわずか数百人ほど。植民者は行政を担わせるためにベトナム人を、商取引のために中国人を移住させており、平均的なラオス農民の生活に変化はほとんどありませんでした。
第二次世界大戦、独立運動、そして独立
第二次世界大戦中、フランス領インドシナは一時的に日本に占領されます。
1945年の日本の降伏後、国王の甥が率いる「ラオ・イサラ」(自由ラオス)運動が独立を宣言します。
しかし、国王がフランス側についたためこの試みはすぐに終焉を迎え、フランスがラオスに復帰することになりました。
1953年、フランスは王政ラオス政府の独立を承認しましたが、ラオ・イサラ運動から派生した勢力はその後も国内で影響力を持ち続け、複雑な政治状況が展開されることになります。